鑑定団で

2007年3月27日 歴史
 出てきた桂さんと弥次と八十と久坂の手紙20点。500万は安いよね。思わず画面にかぶりつきましたよ。もちろん読めませんけど(^^;)
 出版されている史料も集めだしたら、万札がいくらあってもたりませんもんね……。桂さんの全集8万5千円(涙)。無論、買えませんので、図書館のお世話になっていますが……。
 でも、久坂の直筆が1点25万ぐらいだったら…と、理性が揺らぎそうになりました。

杉蔵、往け

2007年3月26日 歴史
 日曜日の読売新聞のコラム欄に吉田松陰の叙が名文として紹介されていました(嬉)しかも松下村塾四天王のひとり入江九一(杉蔵)に宛てたものvちなみに
月白く、風清し。飄然として馬に乗りて三百程、十数日、酒も飲むべし、詩も賦すべし…

と、続きます。格好いいv
一朝の奮激の能く動かすところに非ず。其れただ積誠これを動かす
(すぐに激情に任せても世を動かすことはできない。ただ真心の積み重ねこそが動かせるのだ)

 名句だと思うのですが、先のことを思うと、複雑な心境……。
 松陰の無謀な計画に高杉晋作や久坂玄瑞ら他の塾生が反対して絶縁してしまうなか、入江九一と和作の兄弟だけが最後まで松陰に賛同。
 松陰たちは投獄され、松陰は江戸送りになったあと刑死してしまいます。
 残された九一は志士として奔走。蛤御門の変では久坂と共に入京に反対したものの来島翁に押し切られ、久坂、太田と水杯を交わして出陣。死の直前の久坂の髪を梳かしてやったり、自ら深手を負っても介錯しにきた仲間に”早く逃げろ”と手で示したり…最後まで深い思いやりを感じる話が残っています。
 弟の和作(野村靖)は内務大臣や逓信大臣を歴任。初代、神奈川県知事でもあります。松陰の遺書というべき留魂録は維新後に和作の手に渡り今に伝えられています。
 江戸へ旅立つ高杉への「高杉暢夫を送る叙(←バイブルv)」もなんですが、松陰先生の叙って塾生の将来の姿が見えてたんではないかと思うぐらい泣けてきます。
 ……ですが、見ていません。
 日曜日は録画されておらず、土曜日の再放送は見逃しました。
 主役夫妻を象徴するエピソードだったのに(汗)。

 与太話をちょっと。
 一豊は千代から受け取った金十両で名馬を買い、それが馬好きの信長の目にとまって褒められるという有名エピソード。
 これと対照的なのが竹中半兵衛の逸話。半兵衛は「良い馬は持つべきではない。金十両あったらなら、五両づつ出して馬を二頭買うべきだ」と言っていたのだとか。戦場に出たときに良い馬や武具を持っていては、それを惜しんで思う存分働けないからだそうです。
 そういえば、松寿丸こと黒田長政は城井谷合戦の敗走のときに大龍寺という名馬を惜しんで逃げ遅れたんだよなあ(^^;)
 信長の家紋といえば木瓜紋ですが、信長が平氏の末裔を名乗ったということで平氏ゆかりの揚羽蝶紋も使いました。大河で信長役の舘さん自身の家紋も揚羽蝶だそうで、信長の衣裳に揚羽蝶紋を見たとき不思議な縁を感じたそうです。
 織田家は元は藤原姓を名乗っており、信長が平氏に変えたのは朝倉攻めをした元亀ごろ。源氏である足利に対抗して…とも言われています。
 姉川の合戦の前、信長は家康に槍を渡して「この鏃は鎮西八郎(為朝)のもの。源氏であるお前にやるから、明日の戦に勝て」と言ったんだとか。為朝はめちゃめちゃ強かったけど平家に負けて悲劇の最期を遂げたんだよ!家康としては喜んでいいんだか…複雑だよね。
 信長が元服時に名乗った上総介の私称。本来なら祖父や父が名乗った弾正忠を名乗るべきところ(弾正忠の官職は義昭上洛時に正式に貰っています)。偶然かもしれませんが、桓武平氏、武士の祖である高望王が上総介でした。これも不思議な縁を感じます。
 信長が桶狭間の前に舞ったのは”敦盛”。織田家の祖といわれるのは”資盛”。その美を愛でられながらも戦場に散っていった若武者たちです。
 平氏と信長、開闢の気風だけでなく滅びの美学さえ通じるものがあるのでしょうか……。

このころの

2006年2月5日 歴史
 近江の話を少し。
 南は六角氏。北は浅井氏が治めていました。
 両者は長年争っていましたが、凡庸な浅井久政の代になると六角氏が優勢になります。
 久政は息子の長政と六角氏の重臣の娘とを結婚させ、浅井氏は実質的に六角氏に臣従しました。
 これを不満に思った浅井の重臣たち(と長政)はクーデターを起こし、久政を無理矢理隠居させました。
 15才の若き当主となった長政は妻を離縁し、六角氏を野良田の戦いで破ります。
 市の輿入れから話は遡ること(笑)、7年前の出来事です。
 その後、六角氏は美濃の斎藤氏と結んで浅井を攻めます。 
 しかし、六角氏は観音寺騒動(これも重臣たちによるクーデター劇)により当主義治の求心力が弱体化。美濃も重臣日根野弘就などが密かに赤尾清綱を通じて浅井と内通していました(日根野は斎藤家滅亡後、浅井家に身を寄せます)。
 斎藤家が滅亡した年、浅井長政は「朝倉攻めはしない」という信長の言質を得て、織田との同盟を結ぶのですが……。
 といえば、「長政」と聞いて誰を連想します?
 浅井長政。浅野長政。黒田長政。う〜ん、まだ他にもいそうですね。
 私は松寿クンこと黒田長政なのですが、彼の名前は信長から「長」の字をもらったそうで…。
 信長が殺そうとした子供(黒田長政)と殺した義弟(浅井長政)の名が同じとは…。
 黒田長政は大きくなって「オレはどんなに頑張っても、あの凄い如水の子だから、と評価してもらえない。幸長はいいよな〜。親爺が普通の人で」といつもぼやいていたそうです。その幸長パパとは五奉行の浅野長政(←この人だって地味だけど優秀なのに。 笑)。
 大河の浅井長政は榎木孝明さんですけど(嬉)、他の二人も出てほしいですね。
永禄二年岩倉城落城
永禄三年5月 桶狭間の戦い
    6月・8月 信長、美濃侵攻 
永禄四年春 信長、松平元康(家康)と和睦 
    5月 斎藤義龍、病死
    5月・6月 信長、美濃侵攻
永禄五年1月 信長、元康と同盟
永禄六年2月 小牧山築城(のち清洲より移城)
    春 美濃侵攻(半兵衛、十面埋伏の陣で織田軍を破る)
永禄七年2月 半兵衛、稲葉山城占拠
    9月 犬山城落城
 半兵衛の十面埋伏の陣は出所が「絵本太閤記」なので史実としてはめちゃめちゃ怪しいです(笑)。
 信長は桶狭間の戦いで今川に勝ち、竹千代くんと同盟を結んだことで後顧の憂いを断ち、美濃攻めを本格化。けれど、何回攻めても稲葉山城は落とせない。このころはまだ東方の犬山城に織田信清がおり、斎藤家と同盟を結んでいました。
 永禄六年以前、清洲城時代は美濃西方から侵入。小牧山に居城を移してからは東美濃を攻略します。
 大河で扱っていた重盛の死から院政停止にまでいたる清盛vs後白河院の構図をメモ書き。

治承3年(1179)
 6月17日 盛子没(清盛女、摂政基実の後妻、基通の義母)
→盛子が相続していた基実の遺産(摂関家領)を後白河院が接収。
 8月 1日 重盛没
→重盛が知行していた越前国を長男維盛が相続するが、後白河院が収公。
10月 9日 師家(関白基房の子)が7歳で権中納言に昇任。
→従兄の基通(清盛の義孫)を抜いての昇進。

 長寛二年(1163)、清盛は摂政藤原基実の元へ娘の盛子を嫁がせました。
 基実の死後、摂政職は弟の松殿基房に譲られたものの、莫大な遺産は盛子が相続しました。
 清盛は盛子を通じて摂関家の領地を乗っ取り、平家隆盛の基盤をなしました。
 摂関家の当主となった基房は面白くありません。
 盛子が亡くなると、基房は後白河院に摂関家領の相続を願い出たようです。
 しかし、摂関家の荘園は後白河院の管理下におかれます。
 その代わり基房の子師家が異例の出世を遂げました。
 それに激怒した清盛の逆襲が始まります。

11月14日 清盛、軍を率いて福原より上洛
11月16日 関白基房解官。
→基房の甥の基通が清盛の支援を受けて関白に任官。
11月18日 基房、大宰府に配流。平業房、伊豆に配流。
11月20日 後白河院、鳥羽に幽閉。

 清盛は関白基房と平業房の2名を流罪にしたのをはじめ、院の近臣35名を解官。
 その中にはなぜか弟の頼盛も入っています。
 頼盛は頼朝を助けた池禅尼の息子。その縁で平家滅亡後も助命されました。頼盛はいわば正妻の嫡男。清盛とは父忠盛の形見の太刀の相続を巡って対立したこともあり、微妙な関係だったんでしょうね。
 伊豆に流された平業房は鹿ケ谷の陰謀にも連座しましたが、後白河院の再三の懇願により処罰を免れました。
 しかし、このクーデターで流罪になったあと殺されています。
 業房の妻で幽閉中の後白河院の側に仕えていたといわれるのが高階栄子……後白河院の寵妃として大河でもキーパーソンになるであろう丹後局です。

平家の光源氏

2005年3月21日 歴史
 現代よりずっと平均寿命の短かった平安時代。
 四十歳を越えれば長生きと言われ「四十の御賀」「五十の御賀」と十年ごとにお祝いをしてもらえました。
 源氏物語にもそんなお祝いの場面があります。
 「紅葉賀」の巻。
 桐壺帝が上皇の御所に行幸し、上皇の長寿を華やかな宴で祝います。
 そこで光源氏と頭中将の二人で舞ったのが青海波。
 紅葉散り時雨降る中、光源氏の見事な舞姿はこの世のものとは思えぬ美しさだったとか……。
 さて、時代は下って平安末期。
 後白河院の五十の御賀。上皇の長寿を祝って舞われる青海波。
 それはまさに王朝絵巻の世界を現世に再現させたかのよう。
 舞手は清盛の嫡孫維盛でした。
 彼はその端麗な容姿から光源氏と褒めそやされます。
 しかし、滅びへの足音は確実に近づいていました。
 維盛が手綱を握り太刀を携えて富士川の戦場へと向かうのはわずか4年後のこと。
 現世の光源氏には過酷な運命が待っていました。

源氏の嫡流

2005年3月19日 歴史
 大河の頼朝ママは幼い頼朝に「あなたは嫡流よ!」って吹き込んだらしいのですが、頼朝の先祖にあたる源氏の棟梁八幡太郎義家は前九年、後三年の役で大活躍した東国武士のカリスマ。後三年の役で義家と一緒に戦ったのが藤原清衡。義経を助けた奥州の藤原秀衡の祖父です。
 しかし、義家以降の源氏の嫡流は悲惨な運命を辿ります。

義家
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義親(西国で乱を起こし敗死)
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為義(保元の乱で敗死)
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義朝(平治の乱で敗死・頼朝、義経らのパパ)
 
 義朝の長子悪源太義平まで合わせると4代続けて逆賊の汚名を着せられ殺された源氏。
 それでもやがて覇者を生み出すのですから、その生命力は雑草のように強い。

 大河の中で義経は父義朝が死んだ尾張国で元服したことになっていました。
 実は頼朝の母は熱田神宮宮司の娘。「義経記」ではその縁を頼り尾張の熱田神宮で元服したことになっています。
 「義経記」より早い時代に成立した「平治物語」では義経元服の地は近江の鏡里となっており、こちらの説の方が有力のようです。
 殿下乗合事件の底辺に平家&近衛家と松殿家との対立があったのかなと思いつつメモ書き。

 保元の乱で弟頼長に勝利した忠通の息子たちは近衛、松殿、九条の三家に分かれます。

 清盛───────寛子
     │─盛子     ‖
        ‖      ‖
 忠通――基実(近衛)―基通
    │―基房(松殿)
    |―兼実(九条)
    |―慈円 

 清盛は、摂関家の氏の長者であり関白の近衛基実のもとへ娘盛子を後妻として嫁がせます。
 しかし、基実は24歳の若さで病死。基実の息子の基通はこのとき6歳。
 関白職は弟の松殿基房が継ぎます。
 清盛は基通のもとにも娘寛子を嫁がせます。
 近衛家を後押しする平家にとっては摂関家の氏の長者となった松殿基房は邪魔な存在といえます。
 重盛没後に起きた治承のクーデターで清盛は松殿基房を廃し、近衛基通を関白職に推します。
 この争いを冷徹な目で見ていたのが、基通の叔父九条兼実でした。
 平家滅亡の翌年、関白職は基通から頼朝の援助を得た九条兼実に譲られます。

 兄弟、叔父、甥の争いは今にはじまったことではないとはいえ、保元の乱で少しは懲りようよ摂関家……。