大河で扱っていた重盛の死から院政停止にまでいたる清盛vs後白河院の構図をメモ書き。

治承3年(1179)
 6月17日 盛子没(清盛女、摂政基実の後妻、基通の義母)
→盛子が相続していた基実の遺産(摂関家領)を後白河院が接収。
 8月 1日 重盛没
→重盛が知行していた越前国を長男維盛が相続するが、後白河院が収公。
10月 9日 師家(関白基房の子)が7歳で権中納言に昇任。
→従兄の基通(清盛の義孫)を抜いての昇進。

 長寛二年(1163)、清盛は摂政藤原基実の元へ娘の盛子を嫁がせました。
 基実の死後、摂政職は弟の松殿基房に譲られたものの、莫大な遺産は盛子が相続しました。
 清盛は盛子を通じて摂関家の領地を乗っ取り、平家隆盛の基盤をなしました。
 摂関家の当主となった基房は面白くありません。
 盛子が亡くなると、基房は後白河院に摂関家領の相続を願い出たようです。
 しかし、摂関家の荘園は後白河院の管理下におかれます。
 その代わり基房の子師家が異例の出世を遂げました。
 それに激怒した清盛の逆襲が始まります。

11月14日 清盛、軍を率いて福原より上洛
11月16日 関白基房解官。
→基房の甥の基通が清盛の支援を受けて関白に任官。
11月18日 基房、大宰府に配流。平業房、伊豆に配流。
11月20日 後白河院、鳥羽に幽閉。

 清盛は関白基房と平業房の2名を流罪にしたのをはじめ、院の近臣35名を解官。
 その中にはなぜか弟の頼盛も入っています。
 頼盛は頼朝を助けた池禅尼の息子。その縁で平家滅亡後も助命されました。頼盛はいわば正妻の嫡男。清盛とは父忠盛の形見の太刀の相続を巡って対立したこともあり、微妙な関係だったんでしょうね。
 伊豆に流された平業房は鹿ケ谷の陰謀にも連座しましたが、後白河院の再三の懇願により処罰を免れました。
 しかし、このクーデターで流罪になったあと殺されています。
 業房の妻で幽閉中の後白河院の側に仕えていたといわれるのが高階栄子……後白河院の寵妃として大河でもキーパーソンになるであろう丹後局です。

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